僕には育ててくれた父親はいたけれど、産みの父親は未だに知らない。
そのことは僕の人格形成に少しは影響を与えたとは思っているけれど、それは大した問題ではない。
母は若くして僕を産み、未だ知ることのない父は僕らを置いて去った。
僕の中にその記憶はない。
それはだいぶ後になって知った事実。
母は後に再婚し、妹を授かった。
僕の記憶はあたかも切り取られたように、妹が産まれた時から始まったようにすら思う。
だから、僕にとっての父親は一人しかいない。
僕を育ててくれた父だけ。
血の繋がりなどはどうでも良い。
僕は決して裕福ではなかったけれど、それほど不自由もせずに育った。
板金工場で働く父はひたすら血にまつわる事実を僕に隠し続け、不器用な愛を僕に注いでくれた。
無口な人だったけど、将棋と腕相撲だけはずっと僕に付き合い続けてくれた。僕がようやく父に勝つ日まで。
腕相撲も将棋も、父に勝った日のことは今でも忘れない。
「これで最後だな。」と嬉しそうな、ちょっと寂しそうな顔をする父。
僕も嬉しいのか寂しいのかわからない複雑な気持ちだったことを覚えている。
僕が二十歳になった時、僕の血にまつわる事実を初めて父から伝えられた。
父からの告白。それは僕の中でわずかに感じていた違和感、それがパズルのピースみたくピタリとはまった瞬間でもあった。父や母、祖母はもちろんのこと、親戚までもがその事実を必死になって隠し続けてくれていたのだろう。けれど隠しきれないわずかな違和感を僕は感じていたから、「あー、そういうことか」と妙に腑に落ちた感じだった。誰も憎まなかったし、むしろ感謝した。特に寡黙な父は様々な複雑な想いを胸の中に閉じ込め、僕を彼なりの想いで必死に育ててくれたのだろう。
そんな事実を聞いた後、父に誘われ吉祥寺でやきとんを食べ、初めてスナックに連れて行かれた。年配のスナックのママに気に入られ、桑田佳祐の歌を歌わされながら「かわいいわねぇ」と執拗に撫でなれた記憶がある。
その日の父はそれ以上多くを話さず、ただただ静かに笑みを浮かべていたように思う。
父が亡くなり、もうすぐ五年の月日が流れようとしている。癌の治療を断固として拒否し、僕ら家族もそれを受け入れた。最後はホスピスで緩和ケアを受け、この世を去った。僕の心残りは、まともに親孝行が出来なかったことと、まともにありがとうと伝えられなかったことだ。
最後に握りしめた父の手の感覚を今でも時々思い出しては後悔のような念を抱く。
親不孝ばかりしていた。
やんちゃばかりしては何度も迷惑をかけた。
大学まで出してもらいながら、目指していた教師の道も急にやめた。
そんな僕を父はいつも受け入れてくれた。
安いウィスキーを飲み、セブンスターを吸いながら
「お前なら大丈夫だよ」
といつも短い言葉で励ましてくれた父はもういない。
桜が咲き始めた頃。
久しぶりに実家へ行き、会社を辞めることを父と母に報告した。
仏壇の上、笑顔で写る父の顔写真と一枚の賞状。
父の死後、僕は市から福祉功労を表彰され、その賞状を母に渡した。母はそれを今でも父の仏壇に飾っている。
写真を見ながら父に心の中で報告を済まし、一本の線香を半分のところで折り、まとめて火をつける。
軽く振って火を消すと、線香の良い香りがした。
おりんを二度打ち、手を合わせて目を閉じる。
消えゆくおりんの音に重ねて、「また心配かけてごめん」と心の中でつぶやいた。
目を開けると写真の中の父をもう一度見た。
「お前なら大丈夫だよ」と言ってくれているような気がした。
足早に実家を後にする僕の背中に、母は察して「体に気をつけてね」とだけ言った。
僕は振り返らずに右手をあげて答えた。
春の風がやさしく吹いた。

