百日紅の咲く頃に

百日紅の咲く頃に

3月に長年勤めた会社を退職してから、自分の中にだいぶゆとりを感じられる朝を過ごすようになった。それもそうだろう、頭だけでは把握しきれない分刻みのスケジュールやタスクを抱えて、今日は何の仕事があったかな?と手帳をめくることからスタートする朝のルーティン。特に最後の五年間はそんな時間の中に身を置いていた。
4月になってからは、朝から大した予定もない、そんな朝。やらなきゃならない仕事はあっても、急がなきゃならない訳でもない。ゆっくりコーヒーも味わうし、プレッシャーでお腹を下すこともない。なんなら公園でブランコに乗る余裕さえある。
今年の春は満開の桜も余裕を持って見上げられたし、紫陽花の日々の変化も感じたり出来た。朝のランニングでは、道を這うミミズを多く見かける時期を過ぎると蜻蛉が飛び始め、ふと気が付けば百日紅が満開の花を咲かせていたりする、そんなリアルな季節の変化を感じたりもした。学習と体感の違い。そんな時間を過ごせたのは、とても貴重だった。街の中には確実に生命が溢れ、そんな季節と生命の動きを体感出来たから。

一方で就労継続支援事業を行う物件探しは実に困難を極めた。予測と違ったのは、多少なりとも甘い考えの自分がいたからだろう。不動産を巡り、市内を文字通り走り回り、変化することないインターネット内の物件を眺める日々。様々な人、様々な感情と直面し、そんな日々でふと気付いたことがある。それは、街には様々な感情が浮かんでいるということ。目に見えないはずのそんなものが、いつの日からか見えるようになった。期待や失望、誠実や野心、変化や停滞、喜びや悲しみ。数え切れない感情が街の中に浮かんでいることを痛切に感じるようになった。街の景色は目に見えるものだけで構成されている訳じゃないのだ。

心に刻む一節がある。村上春樹が何かの小説で書いていた「どこかで誰かが泣いている。」という一節だ。それは僕の職業人として、いや僕個人として大切にしてきた感覚だ。行動の指針となり、常に胸に留めてきた感覚。ただそれは僕のある種の偏った見方もあったのだろう、と今は思う。その感覚ばかりを見ようとしていた僕自身がいるのだ。その感覚だけを頼りにしていては照らせないものもある。決して否定ではない。あらゆる感情を把握しなければ、描く世界は小さなものになり得るという意味だ。今、そんなふうに思う自分がいる。

就労継続支援事業を行う物件が遂に決まった。仲間と共に期待に胸が膨らんでいる。この二つの季節で得た経験、または感覚は、かけがえのないものになると感じている。きっと僕の仲間も同じ気持ちだろう。この二つの季節の詳細はあえて書かないでおこうと決めた。ただの美談だけで片付けることも出来ないないし、僕らのこれからの活動にこの経験が滲めば良い。

様々な想いが溢れるこの街で、僕らの夢や想いをカタチにする時。その時がいよいよ始まる。

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