好きなのだと思う。バスや電車に乗る機会が増えて、吊り革を掴む人の手首に目がいくようになっている、そんな気がしている。通信機能はもちろん、電子マネー、心拍計、睡眠管理まで備わるすごいヤツ、スマートウォッチを手首している人が実に多い。スマートフォンもろくに使いこなせない自分には程遠い代物だ。「時間とはなんぞや」ということと格闘している我にとって時計はどんなもん?
珈琲をペーパーフィルターで抽出する時のあの香りの瞬間は砂時計。パスタをアルデンテに茹でる時はストップウォッチくらいの完璧なピピピタイマーがいい。(ストップウォッチといえば目隠しして10秒ぴったりに押せるかなんてこと、子ども時代の懐かしの時計遊びだったかな)。「ぐーぐーぐるる」と鳴る腹時計、それはいつでも腸内バロメーター。定時に小さな窓からひょっこり、「ぽっぽ」って(日本では鳩、ドイツではカッコウらしい)知らせる鳩時計はまさに刹那の一刻。友だちの家にそれがあってあんな感じのものが欲しいと願ったことは幼い頃から今もなお続く記憶。
自分はあらゆる時計を見ることがなんだか楽しみだったように思う。貯めたバイト代で懐中時計というもの手にして、そのお気に入りをアクセサリーのように身に付けた時から時間について考える人間になった気がする。
眠れない夜に心臓の鼓動と重なるように耳に飛び込んでるチクタク音はまるで光と音がズレちゃったみたいで。羊が一匹〜なんて気を紛らわせるように唱えても焦りと不安に覆われる気分に、もやりが黙々してとても苦手だった。
旅先のホテルや旅館などで気にして見渡してみると時計を置いているところは少ない気がしている。「今日くらいは時間を忘れてのんびりお寛ぎしてくだされ」ということなのだろうか。時計を気にしないくらいの時間と空間、人は時に必要なのかもしれない。休みの日は時計に左右されない体内時計を感じたられたらいい。
携帯があれば時計なんていらない時代でもある。それでもなんだかんだ腕時計は自分にとって気付けのようなものなのかもしれない、と今日も当たり前に腕に巻きつけて家を出る。ふと映画『パルプフィクション』の腕時計が実に気になってくる。うむむ、これは記憶の脳内時計?
by ジャー・ジャー

